日本に来てから冬が終わるまでの間、私は学校へは通わずに榊の本宅で家庭教師から授業を受けていた。
中学一年終了までに習得するべき課程は概ね問題無し。
目下一番の心配事は言葉だったけれど、イギリスに住んでいたとはいえ日本人の祖母とは時々日本語でやり取りをしていたし、
日本人の友人も居たせいかこれも大きな障害にはならなかった。

しばらく住んだ本宅は建物ばかりが大きくて、人は大勢いたけれど人の気配が無い、空っぽの空間だったように記憶している。
悪い扱いをされていた訳でも無いのにそんな印象なのは、きっと世話をしてくれた人たちが家族じゃなかったからだと今では思う。
人の気配を感じたのは伯父の、太郎さんが週に一度忙しい合間を縫って様子を見に来きてくれた時だけだったから。

大方の準備を整え、生活にもすっかり慣れてきた2月の終わりに編入試験を受けた。
その結果。太郎さんが教鞭を執る氷帝学園中等部に、春から二年生として通えることになりホッとしたのを覚えてる。
自信が無かった訳では無いが、万が一ということが過ぎったから。それに、太郎さんにガッカリされるのは嫌だった。

あぁ。筆記試験と学園長との簡単な面談を終えてから、折角だからって太郎さんが校内を案内してくれたな。
教科担当である音楽室に行ったときなんて軽くだけどピアノまで弾いてくれて。知らない曲だったけど、全然退屈じゃなくて。
太郎さんの知らない顔を垣間見れて新鮮なのと、テリトリーに入れて貰えたような気がして本当に嬉しかったの。


「太郎さん。さっき弾いてくれた曲、また聴かせてね」
「あぁ、もちろんだ」
「あとね、それからね、」
「あっ、監督!こちらにいらっしゃいましたか」
「鳳か」


音楽室を出てすぐにジャージ姿の背の高い男の子がバタバタと階段を駆け上がってくる。
声の方に顔を向けた私は階段を昇り切って小さく息をつくその彼のジャージの色にまず目を奪われてしまった。
あぁ、空色だ。夏の真昼の快晴じゃあない。
丁度今頃、まだ寒さが辛い季節の夜が明けてすぐ、ひんやりとした空気ながらどこか優しく身体を包む柔らかい空の色。
その男の子の身を包むジャージの青はそんな色で、太郎さんみたいだ、って思った。
氷帝だからアイスブルーが正しいんだろうけど、でも私にとってはそれは空の色でもあって、太郎さんの色でもあるんだ。

鳳と呼ばれたその男の子は太郎さんのそばに私が――というか、おそらく誰かしら人が――いたことにかなり驚いたらしい。
ジャージから目を上げると彼の目と目が合った、その瞬間に肩をびくりとさせて固まったから。


「どうした、鳳」
「……っえ、あ、すみません!えっと、そろそろ試合形式の時間ですので」
「あぁもう時間か、すまない。ご苦労だった」
「あ、いえ」
。これから私はテニス部の指導があるからしばらくは帰れない。試験を受けて疲れたろう、先に帰りたければ車を寄越すが」
「ううん、大丈夫。むしろ見てみたいから一緒に行ってもいい?」
「そうか。そうしたいのなら構わない。では行くか」


確かに試験を受けたせいというか、慣れないところに出て緊張したから疲れていたのが本当のところだけど
伯父の顔、氷帝学園教師の顔、音楽室での音楽家の顔。ここまできたらテニス部監督としての顔も見ておきたかった。
気付いているのかは解らないけど、私が見てみたいというのはテニスじゃなくてテニスコートでの太郎さんの顔のこと。

太郎さんは基本的に起伏が少ない。クールなせいもあって、きっと普通の人からしたら全部同じように見えるのかもしれないけど
期間が短くても家族だもん、違うのくらいわかるよ。
他には一体どんな顔があるんだろう、授業中の顔もきっと違うんだろうな、早く見たい。あとは何だろう……男性としての顔、とか?

ぼんやりと考え事をしながら、階段を降りだす太郎さんの後に黙って続いた。男の子も私の横に並んで降りていく。
彼も私同様黙ったまま何も言わないけど、それでもチラチラと私の方を見遣っている。
誰なのか気になる、だけど聞くのもなんとなく憚られる、そんな好奇心と遠慮とを含んだ視線。
それを知りながらも私は澄ました顔で真っ直ぐ前を向いて気づかない振りのまま、私からこういう者です、と言い出すのは何か違う気がしたから。


「あぁ、鳳。この子は私の姪で、という。春から氷帝に編入することになっている。お前と同じ歳だ、仲良くしてやってくれ」


次の出方を伺いあう背後の攻防に気づいたかのように、太郎さんが声を掛けてくれて。
そのお蔭で私たちの間に流れていた緊張状態の張りつめた空気が緩んだ。
私は弾かれたように澄ました顔をすっかり崩し、軽口をたたくための口を開く。


「やだ、太郎さん。まだ今日試験したばかりで合格するかもわからないのに」
「お前なら大丈夫だ。それに面談も好印象だったらしい、学園長が褒めていらした」
「そうかなあ。でも気が早いよ、ねぇ?鳳くん」
「えっ」
「ね、そう思わない?」
「あ、えぇっと、……ううん。監督は、嘘は仰わないから」
「えーっ、そーお?ただの親ばかっていうか、オジバカっぽいよー」


私が笑うと鳳くんも困ったようだけど一緒に笑ってくれた。
ひとしきり笑うと、改めて鳳くんが名乗ってくれた。テニス部で、鳳長太郎くん。
太郎さんと名前が似てる、私よりもよっぽど親戚っぽいねって言ったら、彼はまた笑った。










長太郎と遭遇



作成2011.07.14きりん