(※「後悔」のち)





オーストリアに来た当初、今までのように伸び伸びとした声を出すことが出来ないくらい心が疲れきっていた。
事情を知らない講師や周囲のレッスン生が、そんな情けない私を見て「一体何しに来たんだ」なんて笑っていたのは知ってる。
多少は留学の準備のために言葉の勉強もしていたけれど何せ急だったから、ネイティブの早口を聞き取れるレベルの訳が無い。
それでも表情や身振り、声のトーンなんかで馬鹿にされているかどうかくらいは解るもの!

……ううん、違うかもしれない。
ただの被害妄想かもしれない。それは自分の心が見せる幻影なのかもしれない。
もう、挫けそうだった。

だけど逃げるわけにはいかない。だって私は既にひとつ逃げたことがあるから。
逃げたからここにいる。だからこれ以上は逃げられない、何より逃げたくない。
逃げたらきっと癖になって今後の人生ずっと逃げ続けてしまって。
今度こそ、本当に自分自身が駄目になると頭のどこかで解っていたから。



歯を食いしばって、踏ん張って。
必死に歌うことに取り組んで、気がつけばそろそろ1年が経過しようとしていた。
時間を掛けたお陰か、脇目も振らず集中して取り組む物事があったからか。
その頃になると、以前のような声を取り戻すことが出来た上に、私の心も大分安定してきていて。


「そうか?私には、以前よりも歌唱力が格段に上がっているように聴こえたが」
「本当?榊先生にそう言ってもらえると自信ついちゃう」
「自惚れはいけないが、自信を持つことはとてもいいことだ」


私の通うオーストリアの音楽学校へ、次の冬期交換留学についての細かな打ち合わせに来た叔父と久しぶりに会い、
講師にお願いして音楽室を一室借り、そこで私は叔父に自らが歌う1曲のアリアと1杯の紅茶を振る舞った。

1曲終えたころ、丁度紅茶を飲み干した叔父から拍手とお褒めの言葉を頂いたらようやくホッと一息をつけた。
前の自分の歌を知っている人に聴いてもらうのは初めてだったから、
どう思われるかすごく心配で心臓のドキドキが止まらなくて仕方なかったから。

嬉しい気持ちで叔父の隣に腰を掛け、私も先に淹れておいた、飲み頃の温度になった紅茶をひとくち含む。
喉を通すと紙が水を吸うように染み渡り、渇きが潤っていく。
少し物足りなく感じてもうひとくちを飲み込み満足したと同時に、叔父が静かに話を切り出し始めた。


「そろそろ1年になるが。どうしたい」


それから、一瞬言葉に詰まった後。
いつも物事はハッキリと言う叔父が少しだけ言いづらそうに“戻るか?”と付け加えた。あえて、何処にとは言わず濁して。
勿論、改めて言われなくても解っている。それは、日本へ……氷帝学園へ戻るかどうかという問い。

勿論逃げたくは無い。
だけど、戻ってもあの出来事が起こる前の生活など到底送ることは出来ないだろう。
知っている人がいる限り、一時的でも、その後も、ことある事にでも、好奇の目に晒されることは必死。
その中で平静な心を保ち続けていられる自信が無い。
今は落ち着いたとはいえ、以前は知らないはずの周囲全部が私を嘲笑い、私を噂し、
私の全てを見透かしているような意識に陥ったことだってあるのだから。
同じことが起こらないという明確なものは何も無い。

黙ってしまい考え込んでしまった私の次の言葉を
叔父もまた、黙ったまま根気強く待ってくれた。





数分か、数十分か、数時間か。
どれくらいの時間が経ったかの感覚が全く無いほどに集中して考えていたらしい。


「……太郎さん。私、」


答えを出すために。一呼吸置いてから、私は口を開く。
開いたときにカサリと上下の唇が音を立てて小さな痛みが走ったけれど、構わずに言葉を続ける。
言ってしまわないとせっかく決めた決心が揺らいでしまいそうだったから。


「!……あぁ、。言ってごらん」
「私は、―――」


私が先生として目の前にいる叔父をプライベートな名前で呼ぶのはこれで2度目。
叔父に“家族”として聞いてもらいたいときに、そうする。
それを知っている叔父はクールな表情をすぐに真剣なものに変え、話を聞く姿勢を整えた。

改めて自分の意思を伝えると、
叔父は色を何ひとつとして変えず、私の言葉そのまま全てを受け入れてくれた―――。










選んだ未来はどこへ



作成2010.08.17きりん