(先生と生徒の交流…?)





さっきまで問題集を解いていたお陰で、私の手はシャーペンの黒鉛で黒く汚れてしまっていた。
ウェットティッシュなんて持っていないし、普通に乾いたハンカチで拭いたところで落ちやしない。
やれやれとばかりに教室から出て、廊下の水道で手を洗って蛇口を締めてから、ふと気がつく。


「あ、ハンカチ忘れた」


濡れた手を拭うのに、ここでこそハンカチが必要だというのに。
さっき色々考えていたときにポケットから出して机の上に置いたんだった。
集中して勉強をすることなんて滅多に無かったから、その反動で呆けてしまっていたんだろう。
全く、我ながらあきれる。


「使いなさい」


手から床へとぽたぽた落ちる水滴をそのままに、教室までハンカチを取りに行こうとすると、
聞き覚えのあるバリトンとともに、私の目の前にさっと差し出される寒色のハンカチ。

顔を上げて、ハンカチを持つその手を辿ると。そこには思った通りの声の主。
ハンカチの色に似合う、彼の涼しげな目と目が合うと私の心臓は訳も無く跳ねた。
(ほら。先生っていう人種と目が合うとドキドキというか、ちょっとビクッとしない?)


「え、……いいんですか?」
「あぁ。構わないから早く拭きなさい」
「ありがとうございます、榊先生」


より一層こちらに差し出されたハンカチを受け取り、畳まれたそのままで自分の手を拭う。
すると榊先生は「それでは拭いきれないだろう。遠慮はせずに、広げて使いなさい」と目を細め、呆れたように私を見る。
そりゃあ、普通は遠慮しますよ。なんて思いつつも言われたとおりにそのハンカチの端を持ってばさり。

広げた瞬間、ふわりと私の鼻をくすぐったのは榊先生の香り。

正確にはハンカチに吹かれていた香水の香りなんだろうけど。
香水の種類なんて解らない私にとっては、その香りイコール榊先生の香りだといつしかインプットされていて。

幾度かすれ違いざまや音楽の授業時に「いい匂いだな」と感じていたその香りを、
今までは微かにしか嗅いだことが無かったのに、突然近いところで感じ取ったお陰で。
香りに、大きく包まれたような気がして。
その……榊先生に抱きしめられた、ような錯覚をおぼえてしまう。


「どうした?」
「い、いえっ」


ハンカチを広げたまま動こうとしない私を、不思議そうな目で榊先生は見つめ声を掛けた。
勿論自分の意識の中で、だけだけど。
自分を抱きしめている相手に優しく穏やかに声を掛けられた私は、これ以上無いくらいに驚いた。
心臓はさっきの比なんかじゃ無いほどに跳ね上がり暴れまわり、収まる気配はまるで無い。

収まらない焦りから、私は思わずハンカチをギュウと握り締めてしまい。
絹製らしいそれは、手の中で可哀想なくらい皺くちゃになってしまった。


「ああっ、すみません!」
「うん?……あぁ、これはまた」
「ご、ごめんなさい……」


これはアイロンを掛けないときっと戻らない。
も、もし戻らなかったらどうしよう?
万一弁償しようにも、榊先生の使うハンカチなんてどんなブランドでどんな値段なのか想像も付かないし……

そんな私の心配やおろおろした様子を余所に、榊先生はというと。
なんと、……噴出して、それから笑い出した。


「ふっ……くっくっく」


綺麗な顔をした人は笑っても綺麗なんだなぁ、なんてウッカリ見とれたりして。

それにしてもこんなイイ笑顔の先生、今まで見たこと無い。
関わることが少ないから見たことが無くても当たり前なんだけれど。
それでも、あの榊先生が“笑う”っていうのはイメージに無いからまた違う意味で驚いた。


「ふふ……大丈夫だ。心配せずともハンカチなど、幾らでも持っている」
「あ、でも、今日の分は」
「もう一枚予備がある。あぁ、よければそれは、君にあげよう」
「え!」
「笑わせてくれたお礼だ、ではな」


先ほどのイイ笑顔は仕舞われてしまったけれど。
それでも微笑む榊先生は、私の頭にポンポン、と大きな手を乗せた後そのまま去っていった。
固まる私に、香りだけを遺して。



それ以降、あの香りを不意に何処かで感じるたび。
抱きしめられたような錯覚と彼の綺麗な笑顔、その記憶が瞬間的に蘇り。心臓がときめいて、止まない。










特定の香りを嗅いで記憶が蘇ることってありませんか
それにしてもタローは、この女の子の名前をきちんと覚えているのでしょうか




作成2010.03.09きりん