(※綺麗で艶っぽい忍足を目指して)





車にトラブルが見つかったらしく、迎えが遅れるという連絡が携帯に入った。
いつも冷静な彼が珍しい、あまりの慌てぶりに小さく、こっそりと噴出しつつ
「ゆっくりでいいわよ」と告げれば、安堵の返事とまたも謝罪の嵐が続く。
それらをなんとかなだめて電話を切り。迎えが来るまでの間、校内の図書館へ行くことにした。

本が詰め込まれた書棚がずらりと並んだ姿はまさに壮観で、蔵書量の多さを伺わせる。
読書や勉強のための机や椅子も、余裕を持った間隔で相当数が備え付けられていて。
それにも関わらず窮屈さは全く感じさせない、十分すぎるスペースを持つ図書館に入れば
哀しいかな。本の整理やカウンターで作業をする司書の他には人間の、利用する生徒の姿は見えなかった。
もしかしたらここからは見えないだけで書棚の奥などにはいるのかもしれないが。
それにしてもこの広い空間でこれだけの人数なのは寂しい。

中学生という年頃のせいか、本を読む習慣を持たない生徒がほとんどで。
数少ない持ち主たちも本を借りてこの場で読むのでは無く、サロンでお茶をしながらだったり家に持ち帰って読んでいるよう。
私もそれらが嫌いではないし、以前は同じようにそうしていたけれど。
止めて図書館で本を読むようになったのは、楽しみを知ったから。

図書館の周りを覆う樹木の間を縫って、大きな窓から差し込む柔らかい午後の木漏れ日を浴びて。
静寂で凛とした空気と、淡いけれど紙の香りにふうわり包まれたこの空間で本を読む。
それが堪らなく落ち着き、心の安寧をもたらせてくれることに気がついたからだ。

この落ち着く空間の、その中でも最もお気に入りの個人的ベストポジションがある。
図書館の一番奥まった所。樹木の加減か、本を読むのに眩しすぎず暗すぎない丁度良い日の光が差し込む窓に面していて、
仕舞われた順番上の場所なのか、それとも利用者数が少ない本を単に奥へ奥へ押し込められただけなのか。
この辺りは古いものが多いようで、新しいものと違いインクの匂いが強すぎない本ばかりが収められた書棚に囲まれている、
そこには、すべすべとした上等な木材で作られた大きな机と、ゆったりと座れる朱色をしたアンティーク調のソファが置かれているのだ。

ここへは本を読むためだったり、試験勉強をしにきたりとよく利用している。
テスト期間中で図書館が珍しく賑わっている時分でも、こんな奥まで足を伸ばす人間はいないから場所を取る苦労はしない。
きっと、誰も知らないんじゃないかしら。こんなところに机とソファがセットで置かれているなんて。


「っ、……忍足さん?」


そう思い込んでいたから、私は気を抜いたまま書棚の裏へ足を踏み入れた。
すれば目的地には考えも及ばなかった先客がいて。それに私は思いきり面食らい、ビクリと肩まで跳ねさせた。

背もたれと肘掛けの間の角目に背中と頭を預けて、長い脚は組んで斜め前へ放り出し。
かなりリラックスした格好で本を読みながら出迎えてくれたこの人はなんだろう、言うなれば数少ない読書仲間にでもなるのだろうか。

サロンでお茶をしながらの読書を楽しんでいた頃、同じようにそうしていた先輩が
「自分、どんな本読んでるん?」と、私に声を掛けてくれたのがきっかけ。
それからサロンでお互いを見つけると同じテーブルに着いて、お茶を飲み黙ったままそれぞれ自分の世界へ耽りつつ。
たまに読んでいる本の感想をポツリポツリと言い合ったり、お奨めの本の情報交換をしたりしてたっけ。

その後しばらくして、もともとひとつの処に留まるタイプでも無い私はふらふらと校内や館内を探索した結果。
新しくここで本を読む楽しみを覚えてしまったのでサロンへは行かなくなった。

広い校内、学年の違う先輩の姿を見ることはサロン以外では殆ど無かったし、
実を言うと最初に教えて貰った苗字と本の好み以外、私は先輩のことをよく知らない。
(あぁ、それとテニス部のレギュラーだということは一応知ってはいるけれど、
私はテニスの観戦をしに行ったことは無いから、その姿を目にしたことは無い。)

そういう、顔見知り程度の人間で交流からも遠ざかっていた相手が。
私が珍しくどっぷり浸りこんでいるお気に入りのこの場所に居るというのはとてもアンバランスに感じる。
いつもの、私だけの場所だと思っていたのに、まるで知らない場所のように映ってしまう。
(目にしない期間が長かったのも、そう考えた要因のひとつだったのかもしれない)

どう行動するか迷って書棚の脇で立ち尽くしていると、掛けた声に気づいて本から顔を上げた先輩と目が合う。


「ん。あぁ、お嬢ちゃんか。こんにちは」
「こんにちは。えっと、……お久しぶりです」
「せやな」


久しぶりの先輩の声は最初に聞いたときと同じ、相変わらず低音でウィスパー。
落ち着いた口ぶりと、土地柄あまり耳にすることがない関西弁は先輩のアイデンティティーを象徴するよう。
それが耳に届いた瞬間、先輩の個がストンと私の中に堕ちてじんわりと広がり、その存在がクリアになった気がして。
同じテーブルに着いて少ないながら会話をしていた頃の距離感を思い出し、迷っていたはずの脚は勝手に前へ踏み出していた。

歩み寄りソファへ腰を下ろそうとすると、まるで私を招き入れるように先輩は座りなおし、背中は真っ直ぐ背もたれへ。
斜めへと放り出していた脚は前へと組みなおしてスペースを作ってくれた。
特にそうする必要は無いほど余裕は十分にあるソファだけど、それでもその心遣いが嬉しい。
少しだけ口角が上がるのを感じつつ、先輩の隣へと腰を下ろした。


「忍足さんもこの場所、ご存知だったんですね」
「いや、ちゃうねん。館内ふらついとったら見つけてなぁ、たまたまや」
「へぇ、偶然ですね」
「それにしても、ここは気持ちえぇなぁ」
「でしょ」


キリの良いところまで読んだのだろうか、先輩は本と目を閉じて両腕を上へと伸ばす。
たっぷり時間を掛けてそれをしてから再び本を開くのかと思いきや、先輩は膝の上に置いていた文庫本を机の上へ乗せた。
先の行動がさっぱり読めない。ただ、手から本を遠ざけたということは、しばらくは読まないんだろうと思う。

どうにも本を読むような空気で無くなってしまったように感じる。
いや、それらを無視して私だけ本を読むことも出来る。以前はお互い相手などお構いなしに思うまま動いていたんだし。
でもそう出来なかった。距離感を思い出したとはいえ、遠慮する気持ちがまだ残る。
私は手にしていた本を開かず沈黙し、先は先輩に委ねた。


「……最近は。どんな本読んでるん?」
「えっと。これです、恋愛小説。ほら、忍足さんが奨めてくださった」
「ホンマや。自分、そういう系統苦手や言うとったのに」
「あのときあまりに忍足さんが熱心だったんで、なんか気になっちゃって」
「ふっ、さよか」


本を差し出すとそれを受け取った先輩は表紙を認め、目を細めて微かに笑う。
それから私へと戻すために、先輩はこちらへ本を差し出し返してくれた。

それを改めて受け取ろうとしたときにふと過ぎる。
そういえば、この恋愛小説にこういう感じで本をやり取りする描写があってこの後がたしか、


「せや。コレに今みたいなシーンあったなぁ」
「えぇ」
「そんで、続きはこうやったな」
「!」


バサリ

手にするはずだった本が落ちたことは、辺りに響いたその音と。
本来感じるはずだった無機質な紙では無く、ぎゅうと握られ伝わる力とじんわりとした温かみを手に感じたことによって理解した。

そういえば、私はこの人に一度も触れたことが無かったことに気がついた。
それから、この人から私に触れてきたことも一度として無かったことにも。

初めて触れるのに。手のひらをピッタリくっつけて指と指を全部絡めるなんて、一足飛びもいいところだわ。
頭では半ば嘲笑するかのようにそんなことを考えているのに、心臓の脈打つ速度は上がるばかり。
恋愛小説の主人公は「どきどきする」なんて可愛らしい一文だけなのに、私の方はそんな悠長な状態ではない。
ポンプが急ピッチで稼働中らしく心臓は痛いしそのお陰で脈はドクドク五月蝿いし、なんだか胃の調子まで悪くなってきたように思う。

そもそも、物語のふたりの関係性はもっと近しいものであって、私たちのように触れ合ったことも無いような顔見知りレベルでは無い。
先輩は何を考えこの行動を取ったのか。単に物語の内容を再現したかっただけなのか、それとも、それ以上の理由があるのか。
ふと顔を上げる。眼鏡の奥の双眼は揺らぐこと無く、真っ直ぐに私を捉えていたけれど。
目が合うと先輩は一拍置いてからゆっくりと目線を逸らし、それを絡み合った指の方へと向けた。


「女の子やなぁ、細い指して。……綺麗で、折れてしまいそうや」
「忍足さんの指も、綺麗ですよ」
「ほうか?関節とかゴツゴツしとるし、男の指が綺麗言うんもなぁ」
「ううん、すらっと長くて綺麗……それから、手も大きくて男の人って感じで、」
「好きか?」
「! ……。」
「……おおきに」


私が戸惑いながらも黙ってこくりと頷けば、さっきよりも幾分笑顔が増えたような表情を見せる先輩。
嬉しいだろうことは解るけれど、やっぱり理由は解らなくて。その言葉の意図も読めなくて。

触れた指先から、貴方は私の何を感じ取っているの。
貴方は何を想って私に触れているの。
解らなくて不安だけが募る、「どきどきして」いるのは、……私だけなの?

頭の中は貴方へのことでいっぱいで、他のことなんて考えられない。
指と一緒に心まで絡めとられてしまったよう。

差し込む日の光の朱色が濃くなっていたことも
換気のためにほんの少し開けられていた窓から入る、訪れる夜を告げるようなひんやりした風が頬を撫ぜたことも
彼からの着信に携帯が震えていることも

何もかも気づかないふりで、今は只このままで。










“彼”の解釈はお好きなように……



作成2010.04.23きりん